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#09 日々是口実 「世界をどう<視る>か。自分はどう<在る>か。」

松尾スズキの「人生の謎について」を読んだ。

このコラムの1発目で見た舞台が松尾スズキ率いる大人計画のものだったりもある。

なんというか、とても共感した眼差しを感じたのだ。

これを見る読者もちろん読んでいないのだから説明が必要だが、自分の身に降りかかる全ての物事をしっかりと見つめている視座を感じるのだ。

その視界の中には、松尾氏もいるわけで何か俯瞰した人生を舞台のステージのように引いてみる視点で人生が語られているのだ。

これは我が恩師の後藤繁雄さんもいっていた。
子供から学生の頃まで、うまく人と喋れなかったと。初めて取材した時には黒電話経由で電話を介在させることで話すことができたといっていた。その時の経験で自分という人形を操ればいいのだという視点を得て、編集者として歩み始めていた。といううっすらとした私の記憶がある。

傀儡(かいらい/くぐつ)としての自分

恩師が恩師なもので、私自身ももちろんそれを実践する。

何も持ち合わせぬ学生が何かをしようとするとき、ポケットに入るだけの勇気だけをもって世の中に挑む。玉砕混合のごとくぶつかり、うまくいくことも失敗することも多々あった。

記憶が美化されているがうまくいった方の方が多かった気がする。

常に目指すべき状態からは色々なものが失われた状態で世の中を渡り歩く必要がある。

ココロを胸に携えていたら、あっという間に壊れていただろうと思う。

私自身、恩師の教えで自分を傀儡かし、大口をたたき、陰で死ぬ気で実現してきた日々がある。
そうでもしない限りココロが持たなかっただろうと今でも思う。

理想の自分を描き、自分自身を動かしていく。

そんな日々を今もなお続けている。

本来の自分といえば、ちゃんちゃんこをきて、タバコを吸い、酒を飲んでは、明日の自分に自分自身を委ねるあまちゃんである。それでもまぁ、ここまでこれたのは傀儡を操る視点を得たことにある。

自分という舞台を見ている視点

松尾スズキの文章には視点がある。巻き起こる様々な悲劇や怒りをどうにかして喜劇に変えていこうという狂気じみた執着心がある。

そのココロは深い眼差しを生み出し、自分であれば悲しいことだと心にしまってしまう出来事を誰かの笑い声にかえていくのだ。

自分という役者が立つ舞台を見ているかのように人生の出来事をどうにかして新しい側面で笑いに変えていく。

結果、その表現や執着は、ただ面白いだけではなく裏には皮肉や怒りや悲しみが潜んでいる。それが大人計画、松尾スズキが生み出す世界の歪さであり、本当の世界の姿のようにすら思えてならない。

世界をどう<視る>か。自分はそこでどう<在る>か。

傀儡的に自分を操作してきた人生も出会った。しかし、松尾スズキの視点で世界を見た時に世界をどう視て、どのような舞台とし、どう観せるか。その時、自分はどう在るべきか。ということを考えた。

見るだけではなく見立てる視点というか、この世界に自分がどう在るかは演出そのものだなと思うし、そこで発する言葉や仕草も全て在り方に紐づいていくのだなと思うのだ。

年末年始は慌ただしく過ぎ去り、読めてエッセイだと手に取った本でたくさん学ぶことがあった。こうやって何を学び取ったかを外に発することだけで頭なの中で情報が整理されていくのを感じる。これが行動に変わる時、知識は血肉化され我が物となるのだろう。