ここにいるよ。
第1話「王蟲の触手」
みなさん、こんにちは。今が混じる、今と混ぜる「こんこん(今混)」で出会った演出家/脚本家のユリイカ百貨店・たみおと、コピーライターのかたちラボ・田中です。
うんうんうなって、こねくり回して、アハハとやってく往復書簡を始めます。
ここから何か面白いことできたらいいですね。いったい何ができるのか、我々もさっぱりわかりません。でも、とにかくやってみましょう!
たみお「田中さん、田中さん、たみおです。」田中「たみおさん、今日は何をしましょう?」
今日も、ここにいるよ。
田中さん、王蟲ってご存知ですか。
風の谷のナウシカに登場する巨大な蟲、読み方はオーム。高い知能を持っており、他者の脳に直接語りかける(そしてときには映像も流し込める)念話という術を持っています。
その大きさは、大きいものだと足の第一関節が、だいたい人サイズで描かれていることから、高さは10.5m、全長は70m(公式のものではないですが推量です)。琵琶湖をゆく客船ビアンカが全長66mなので、あれよりもう少し大きいです。
映画版「風の谷のナウシカ」では、開始10分で、怒り狂った王蟲の前を、メーヴェに乗ったナウシカが滑空するめちゃくちゃかっこいいシーンが展開されます。あのシーンの王蟲の足のうごきひとつひとつ、揺れて前後する甲羅のひとつひとつに、圧倒された方も多いのではないでしょうか。
その王蟲の大きな特徴の一つに「触手」というものが出てくるんですよ。
宮崎駿さんを敬愛し、「風の谷のナウシカ」が大好きで、それから舞台とライブが大好きなたみおが、今回はそれらを全部繋げて、
ひとつの空間に人々が集まり、
ひとつの方向を向いている時に、
じつは起きているのではないか、と思っている「みんな、金色(こんじき)の野を作り、そこに降りたっていた」説をしたいと思っているんです。
最後まで読んでくださいね、田中さん。
「触手」っていうのは、王蟲の前頭下部分から伸びる、光るロープのようなものです。
映画の中では描かれていませんが、原作ではそのロープの所々に丸い突起が描かれています。触手はただのツルッとしたロープではなく、ざらざらした複雑なつくりで、様々なことを感知する感度の高いものだと思われます。
2020年の2月、新型コロナウィルスによって、いろんなことが起こりました。
田中さんとこのご家族が、犬さん含め、皆さんお元気そうで、ほんとうに何よりです。
我が家も、猫さんが一匹やってきて二匹と5人の暮らしになるなどして、家の中が充実しまくりました。
けれど、劇場やライブハウスの状況は大きく変わりました。
(注こちらの文章を書いたのは6月くらいでした。)
ひとつの場所に、多くの人が肩を寄せ合い集まる。それがコロナウィルスの登場によって、感染拡大のトリガーとなるのではないかと、確証のないまま、タブーとなってしまいました。舞台のお仕事をさせていただいている劇場芸術末端のものとしても、素直に悲しいです。
その一方で、「映像配信」が増えてきました。様々な可能性に満ちた作品で生まれてきています。琵琶湖ホールさんが行った「神々の黄昏」、6万人の視聴者を集めたサカナクションさんの「光online」ライブ。京都では、mama!milkさんも積極的に配信での音楽コンサートを行ってらっしゃいます。また、National theaterなど海外の劇場が、過去上演作品を期間限定で配信するなど、そこにいかなければ見れなかった作品が、家の中で見ることができるようになりました。
それらに感動したり、感謝したりしながらも、考えちゃうんです。
今まで、私が愛して夢中になって、時に赤字になったりしながらやってきた舞台芸術ってものは、一体なんだったのかなって。
田中さんは舞台をよく見に行かれるそうですね。客席が20くらいの作品も見ますよ、とおっしゃっていました。少なくてもそれが面白い、って。もうとっても嬉しいです。
私も学生の頃から、演出担当として、客席20席くらいから始まって、演出のお仕事で800名客席での上演作を作る経験もさせていただきました。
その客席と、舞台含め全てを包む劇場空間で一体何が起きていたのか。
私は、私はですよ、こう思うんです。
「金色の野」が生まれていたのではないかって。
映画「風の谷のナウシカ」のラストシーン、ごらんになった方はすぐに思い浮かぶと思います。
「そのもの蒼き衣を纏いて金色の野に降り立つべし」
らん、らんらら、らんらんらん・・・「ありがとう、ありがとう王蟲」
大好きなシーンです。あれです。あれなんです。「金色の野」です。
ちょっと話をそらしますね。
フランスの哲学者で、メルロ=ポンティっていう方がいるのですが、その方が、身体性と意識の二重構造について「両義性」という、とても面白い論を展開されているのです。
まだまだ勉強不足でわかってないことも多いのですが、共感した部分だけ、私の言葉でお伝えしますね。ポンティさんはですね、「意識とつながっているカラダ」と「意識とつながっていないカラダ」その両方がある、と論じてはるんです。
自転車は、手でハンドルを握り、足でペダルを漕ぎますよね。
お父さんかお母さんかに、後ろを支えてもらいながら、グラグラと乗りこなすのに必死だった思い出、ありませんか。
一度乗れるようになってからは、もう何も考えずとも、例えば歌いながらでも、乗れたりしますよね。その時、私たちは、さあ、右足でペダルを踏んだら、次は左足でペダルをふむんだ! さあ前に。カカトに力を入れて!とかいちいち意識してないんですよ。でも、乗れてしまうんです。あんなにグラグラしてたのに、無意識で乗れるようになったんです。
「意識とつながっているカラダ」と「意識とつながっていないカラダ」がある。
ポンティさんは、それを「両義性」と呼びはりました。
ここからは、自論なのですが、
自転車を乗れるよう伸ばした先で、消えてしまった意識は、本当に消えたのかって思うんですよ。
消えたようにも思えるだけで、本当は、自転車という乗り物を、からめ取りカラダに取り込んだんじゃないかと思うんです。
例えばピアニストも、ものすごい訓練を積んで、ピアノというマシンを体得し、情動を表現する、と言うことをやってのけます。楽譜にある音符の並び、皆同じように見ている記号の、ド、の音一つにしても、弾き手によって、響き方が全然変わりますよね。
それって、ピアニストの身体から、目には見えない触手が伸びて、ピアノを取り込み、またはピアノから目には見えない触手が伸びて、ピアニストを取り込み、お互いにお互いを飲み込みあって、ひとつの音楽を表出してるんじゃないかと思うんです。
それくらい、人間は(人間でない生き物も)、目には見えない意識という触手のようなものを、無数に有しているのではないか。様々なアプリをインストールし続けているのではないか。
風の谷のナウシカの王蟲は、触手を伸ばし、対象に触れることで数多くの情報を受け取ります。念話という術も使い、その対象に語りかけ、脳内にビジョンを見せたりします。
この触手を、人間も持っているんじゃないか、と思うんです。
ポンティさんが考えた「意識とつながっているカラダ/意識とつながっていないカラダ」
いつの間にか、伸ばした触手。
言葉を使わずに得る情報。
絡めとられ、カラダの一部になる技術。
劇場で、たくさんの観客が、咳ひとつしないように、身体のうごきを制限された状態で舞台作品を鑑賞するとき。
ライブで、暗く狭い箱にぎゅうぎゅうになって音楽に体を打たれるとき。
観客は、そして演奏家は、実演家は、そして裏を支える技術者、スタッフは、互いにひとつの作品に向き合いながら、数多の触手を伸ばしあい、その頭上に金色の野を作っているのではないかと、コロナの中で部屋に閉じこもりながら思えたんです。
昔、行った公演で、こんなことがありました。
その時の舞台美術家さんが、ユニークで素敵な方々で、タンスの引き出しを開けた時に、思った以上に長くのびるひきだしを作ってくれたんです。
大人で埋め尽くされた公演の時には、その伸びる引き出しへの反応を誰も表に出しませんでした。けれど、たった一人の子供が客席にいた回で、その子供がキャッと小さな声を立てて笑ったんです。その回の公演は、皆さんどこか子供のように、反応がのびやかな客席になりました。
身体そのものが集まり、それぞれがそれぞれに触手を伸ばしあい、隣に座った人たちや、舞台を作る人たちの、心を微かに受け取りながら、私たちは頭上にひとつの草原を作り合っていた。
そこに立つのは、漫画ではナウシカだけれど、
劇場では、そこに集った観客や舞台を作る面々がそれぞれ立っていたのではないかと思うんです。
私たちは、劇場体験の束の間、
「みなで金色(こんじき)の野を作り、そこに降りたっていた」
そんな風に思って、劇場体験を恋しく思っています。