今混東西#11 エンターテインメント魂、炸裂!NEWTOWN片岡さん・小林さんがこんこんから目指す未来
古今東西。
「昔から今まで、東西四方のあらゆる所」をあらわすことばで、
「いつでもどこでも」という意味としても使われます。
歴史が根付く街・京都は、昔と今が混ざり合う場所。
しかし、そこで生まれる化学反応は「昔」と「今」という組み合わせだけでしょうか?
今混東西。
辞書をめくっても、この四字熟語の意味は書いてありません。
仕事も、背景も、興味関心も違う人々が集うこんこんは、「今」が混ざり合う場所。
いろんな「今」が集まり、新しい何かが起きようとしています。
ドアの向こうには、どんな「今」が待っているのでしょうか。
“こんこん“
……とノックする前に、もはやこの連載ではおなじみとなったこんこん共用部で、今回お話をうかがうお二人を待つ。
取材させていただくのは、NEWTOWN inc.の代表を務める片岡大樹さんと、アシスタントディレクターの小林瑞紀さん。映画やドラマの制作に携わる会社だということは調べて分かっていたものの、バーやサウナイベントなど、映像会社にしては仕事の幅が広すぎないか?と多すぎる事前情報にハテナを複数浮かべながら待っていると、にぎやかな話し声とともにお二人がやってきた。
何やら謎の大きな物体を持っている。聞くと、記事の写真用に持ってきてくださったテントサウナだという。

ますます気になることだらけだが、まずは事務所にお邪魔することになった。
開口一番、「ひとまず、どういったお仕事をされているのでしょうか…?」となぜか恐る恐る聞いてみると、片岡さんは丁寧にお答えくださった。
片岡さん「東京と京都を拠点に、基本的には映像制作業をしています。映像の中でもドラマや映画が主軸で、他にもミュージックビデオとかCM、PV、企業のwebに関する仕事やeスポーツの大会の配信等もやっていて、映像に関しては“来る球は全部打つ”スタイルです。
それから、映像業の傍らサウナ業もやってまして……」
きた!気になるワードその1の登場に、思わず身を乗り出す。
片岡さん「テレビ東京の『サ道』というドラマに立ち上げから参加しています。世の中のサウナブームの流れで僕らも遊びとしてテントサウナとかやってたんですけど、それがだんだん事業化していき、今ではサウナタウンという大きなイベントを開催しています。
2022年1~3月まで東京は下北沢の駅前で3ヶ月開催していました。男性10基、女性5基くらいテントサウナを出して、更衣室やシャワー室、薪でくべたストーブもあります。駅前でフィンランドスタイルのテントサウナを楽しもう!っていう企画ですね。その実績もあって、今は映像業の傍らグランピング施設のディレクションに入ったりもしています」
ふむふむ。趣味がお仕事に繋がったパターンですね……とメモを取ろうとした矢先、もっと気になるワードが飛び出した。
片岡さん「あとはそうですね、去年から熊本の天草で『天草サーカス』っていうサーカス団を立ち上げました」
サーカス。
……サーカス?
サーカスって、ライオンが火の輪をくぐったりするあのサーカスですか?(本当にこの通りに質問してしまった)

詳しく聞くと、片岡さんの親友であり大学の同級生でもある天草出身のマジシャンの方が、コロナ禍を経て地元で何かやりたいという想い汲んで2021年に立ち上げたサーカスとのこと。駐車場に仮設テントを構えて、2週間ほど公演しているのだという。
片岡さん「現代サーカスは動物のショーが難しいので、綱渡りやジャグリング、マジックやアクロバティックパフォーマンスなどが合わさって一つの物語をつくりあげます。演劇とサーカスの融合みたいな、むちゃくちゃ小さいシルク・ドゥ・ソレイユみたいな感じですね。内容は結構ガチです。それを天草という熊本の小さな海辺の街でやっています」
そんなサーカス活動の最中に登場したのが、小林さん。天草出身の彼女は、サーカスの手伝いをしている時に片岡さんと知り合ったそうだ。
小林さん「前職のローカルテレビ局で天草サーカスを取り上げたりしていました。ちょうど仕事を辞めて独立するかで悩んでいたときに片岡さんに出会って、私がチャランポランしてたので京都の撮影の手伝いに呼ばれるようになったんです」
片岡さんと知り合ったばかりの頃は、なんと天草から月に一回のペースで京都まで通っていたという小林さん。しかも、片岡さんよりも先にこんこんに馴染んでいき、「またコイツ来たぞ!」と顔を覚えられるようになった2022年の冬、とうとう京都への移住が完了したそうだ。今はNEWTOWNの仕事を中心にこなしつつ、手が空いてる時は他の入居者の方の仕事を手伝っているという。
小林さん「今日は隣のコンテナの人の運転手をしてきました。“みんなの付き人“っていう新規事業ですね(笑) 私、最初は司法書士事務所に勤めていたので、実は行政書士の資格を持ってまして、そっちの仕事もちょこちょこ始めたりしています。もともとは公的な書類の作成を手伝う係だったんですが、意外と現場が得意なタイプだったので、映像事業の手伝いでも元気に動いてます」
現場仕事が得意という小林さんのタフさにも理由があった。
小林さん「司法書士事務所の仕事がちょっと面白くないなーと思い始めた頃に、DRUM TAOっていう和太鼓のチーム出会ったんです。ノリでオーディションを受けたら合格してしまって、3年くらい所属していました。そこで出演者として太鼓をずっと叩いてたので、毎朝10キロ走るとか、とにかく体力!の部活動みたいな生活を送っていて、ケータイも3年間没収されてました。誰とも連絡とれないしSNSの更新も急に途絶えたので、死んだと思われてたんじゃないかな(笑) そうして30歳になるタイミングでコロナ禍になって、そろそろちゃんとしようと思って普通の暮らしに戻ってきました。そしてテレビ局を経て今に至るって感じですね」
この“小林ストーリー“、わずか数分のこととは思えないほどの濃さであった。数分だけでこんなにも興味をひかれるのだから、知り合ってスカウトまでした片岡さんにとっては尚更だったようだ。
片岡さん「僕ら映像関係は結構ハードな業界なんですけど、彼女が通ってきた道がそれを凌駕する世界だったので(笑) しかも公文書作れるし、こんな面白い人材はおらんなと思って声をかけました。基本的に彼女はコミュニケーションおばけなんで、いろんな人と仲良くなってもらえればいいなと」

小林さんという逸材を見つけて京都でも新しいステップに進もうとしている片岡さんだが、そもそもなぜこんこんに入居しようと思ったのか。
そこに行き着くまでには、小林ストーリーに負けず劣らずの“片岡歴史劇場“があった。時は、片岡さんの幼少期へと遡る。
片岡さん「もともとはずっとサッカーをやってました。京都の福知山にある高校に特待生で入って、100人くらい部員がいるサッカー部の副キャプテンだったんです。小学校からずっとプロ予備軍のような強いチームにはいたんですが、中学生の時に大きいけがをして、この道はもうだめかもなと。その時ほかに何ができるかを考えたら、頭に“映画”が浮かびました。
テレビで毎週放映される映画を観たり、サッカーの合間によく映画館に行ったりもしていて、ずっと好きだったんです。あとは『サッカー部で活躍するクラスの陽キャラ軍団というだけではあかん、何か書けるとかそういう能力がないとこの先埋もれる!』みたいな謎の気持ちがあって。演劇も好きだったので小学校の学芸会では絶対自分が脚本を書いてました。その経緯もあり、高校生の時から21歳くらいまでは先輩とコンビを組んでずっと漫才をやったりもしていましたエンターテインメントがとにかく好きだったんです」
その後、大学で映像を学んでいた片岡さんはドラマ『私立探偵濱マイク』で有名な映画監督の林海象に師事して卒業後もアシスタントをしていた。
片岡さん「もともと京都のシェアハウスに住んでいたんですが、何せギャラが貰えなかったので家に住むのが厳しくなり……。師匠がやっていた『バー探偵』を手伝いながら、27歳くらいまでは2階の倉庫でずっとざこ寝で暮らしていました。今も住民票はそこにおいてるので、東京に出るようになってからも4~5年は毎月一回はずっと京都に帰ってきてたんですよ。
昼は師匠の映像系を手伝いつつ自分のネットワークで個人の仕事を増やしていって、夜はバーテンダーという生活でした。仕事もだいぶ流れが変わってきたけれど京都の居場所ををなくしたくないし、もう少し増やせたら面白いな、と思っていた時にこんこんの入居者募集記事を見つけました」
仕事とプライベート、片岡さんを構成する全てが紐づいていくという大変な生活だったが、バー探偵時代のさまざまな経験が今に活きているのだという。片岡さんいわく、バー探偵は“人と会う場所”で、いろいろな人から「京都でバーをやってる、バー探偵の片岡くん」という覚えられ方をしていたおかげで、面白がって印象に残る人も多かったらしい。バーの流れで飲食界隈のつながりも多いというのだから、顔が広いとはまさにこのことだ。
そして、この経験が意外なところでサウナ業に紐づいていく。

片岡さん「当時は銭湯に行くことが1日の中での最大の贅沢でした。ほんまにお金がなかったので、シャワーだけ浴びて出るのは勿体ないと思い、水風呂からサウナまで全部回って堪能しきってから帰って、バーを開ける……という習慣でしたね。そのうち癖になって、撮影に行く先々で銭湯やサウナに足を運ぶようになりました。それは単なる趣味だったんですが、他のいろんな人に喋っていたら『サ道』のドラマの話がきたんです。
サウナ好きでドラマ作れるプロデューサーおらん?っていう話がピンポイントで舞い込んできて、あれよあれよという間に決まりました。あと、バー探偵では僕がバーテンダーをしている横でマジシャンがショーをしていたんですが、その縁が今のサーカスの仕事に繋がっていたりとか。今、ようやく20代の伏線を回収し始めているところなんですかね」
あまりにも濃密な片岡歴史劇場に開いた口が塞がらなかったが、このうえご家族はお医者さんの家系というのだから驚きだ。ご両親はそれぞれ独立してご自分のクリニックで働いているという。
それがなぜエンターテインメントに繋がったのか、さらにお話をうかがってみて納得した。
片岡さん「小・中学生時代の家族間の話題は、メンタルの話が多かったんです。僕はサッカーでのメンタルコントロールの話をして、両親が話すのは、ただ話を聞いてほしくて病院にくる高齢者の方の話題。そんな時代を過ごしてきたので、自分が医者にならずエンターテインメントをつくっていくことを決めてから、ある時ふと『ああ、結局僕もうちの家系の人間なんやな』って思ったんです。
映画とかサーカスみたいなエンターテインメントって、観ている間は没頭してそれ以外のことを忘れたり、人の心を癒すような効果があって。具体的に注射は打てへんけど、作品を通して誰かの心を救うことはできるかもしれない。“心が豊かになる”ことを僕はつくり出してるんやなと。じゃあこれは片岡家の血だしOK!って自分で納得がいきました。それで、腹を括って今の業界で生きています」
片岡さんから学ぶことは多い、と小林さんも語る。
片岡さん「映像業界自体は、もちろん自分がエンターテイメントが好きで関わっているというのもあるんですけど、片岡さんを見ていてやっぱり敵わない、見習いたい、と思う部分もあって。いろんな人と会わせてもらったり“人に触れる部分”に立ち合わせてもらっている感覚がすごくあります。自分自身も人が好きだし“誰かのために”動くことは得意だったりするので、一緒に活動できれば自分にプラスになるものが増えていくかなと思っています」

想いの強さゆえのケンカも、小林さんと片岡さん(はディスカッションと言い張る)の日常茶飯な出来事なのだとか。そうしてこんこんで過ごす日々も、NEWTOWNにとって日々プラスになりつつあるようだ。
お二人の展望を聞いてみた。
小林さん「私は、全国に友だちをつくりたいなと思ってます。こんこんの仕掛け人の1人である川端さんが『全国に集落をいっぱい作って、自分が遊びに行ける場所を増やしたい』とよく言われてるんですけど、私はその“人”バージョンを目指したいですね。私や、そこから繋げて“NEWTOWNに会いたい人”をいっぱいつくって、遊びをそのまま仕事にできたらすごくいいなと思っています。
何かあれば一旦小林やNEWTOWNに連絡してみるか、と思ってもらえるようなことができればいいなと。仕事の前に、まずは私という人間やNEWTOWNをどんどん前に出していきたい。私が繋ぎ役をやるので、仕事は全部片岡さんに任せて!映像業経験もないしNEWTOWNのこともまだ全然わからないんですけど、人間として尊敬するところとか真似したいところが片岡さんにはいっぱいあるので、自由にさせてもらいながらも現場で学ばせてもらってます」

片岡さん「一事業に絞るのではなく、いろんな業界にまたがる方向に会社を伸ばしていきたいと思ってます。自分らのオリジナルコンテンツをいかに残せるかっていうのが、最近の大きなテーマです。結局やりたいのは自分たちの作品をつくっていくことだと思っているので、それが商売とどうバランスをとっていけるか。本業もやりながら、いろんな作品に時間とか人を投資していくことをようやく少しずつやれてきたかなとは感じています。
その中でも特に映像や映画は形に残らないものなので、ひとつの概念というか、ストーリーと思想みたいなものを頑張ってつくり続けたいです。
最近公開になった『I AM JAM ピザの惑星危機一髪!』という活弁映画も、活弁文化を残したいという想いで制作しました。祇園祭の日に老舗の商店街振興組合のおっちゃんたちが商店街で開催する路上映画祭に大学時代から関わっているんですけど、2015年の時に活弁を上映したんです。そこで活弁士さんと知り合った時から良いなあとは思っていて、今回ようやく実現しました。映画文化は京都からなので、10年ぶりに活弁映画の新作をつくれたというだけでも自分の中の満足度は高いですね。今後は興業として成立させるのが目標です」
片岡さんの“残す”ことにかける想いは、会社名である「NEWTOWN」にも繋がっていた。
片岡さん「僕、千里“ニュータウン”出身だから社名をNEWTOWNにしたんですけど、今はどんどん解体されて、地元のお祭りもどこかのコピペした盆踊りしかない、みたいないわゆる“ソフト”が何も残っていなくて。街としてのハードの問題もあると思うんですけど、切り拓いた街っていうのは受け継がれていかへんイメージがあるんです。万博という一大エンターテイメントをつくりあげる人たちを支えたニュータウンが、ハードの老朽化とともに人が出ていき、どこかで見たことがあるコピペのマンションが建って……一生この繰り返しがここで起きていくんやろなと。
そう思った時に、僕はエンターテインメントとして、小林が言う“人”もそうですが“ソフト面の文化”を地道に残していき、最後に自分の故郷に還元したいなと。それでNEWTOWNおしまい!というイメージです。川端さんが仰ることと似てくるんですけど、僕は作品や物語といったエンターテインメントが“人の集まる場”になっていくと思っています。コミュニティが点在していったものが総じて『ニュータウン』っていう架空の街になる、でいいんじゃないかなという気はしています。
でも、年をとるごとにみんなが『ホームタウン』を持っていることに少し憧れを感じています。最後は『ホームタウン』っていういろんなエンターテインメントが詰まった老人ホームをつくって終わりにできたら面白いですよね」
インタビュー終了後、持ってきていただいたテントサウナを組み立てて写真撮影をしている時まで、まるで漫才を見ているかのようなテンポの良い掛け合いを見せてくださったお二人。
何ならインタビュー関係なくこの人たちのことがもっと知りたい!とまで好奇心を掻き立てられる、とても魅力的な方々だった。
こんこんの8番コンテナから、次はどんなエンターテインメントが発信されていくのか、今後も目が離せない。

片岡さんはNEW TOWN代表として東京と京都を行ったり来たり、小林さんはこんこんを拠点に活動中。知らないところでどんどんこんこんに馴染み、ついには入居者の方と一緒に旅行までしていた小林さんに、片岡さんは驚きっぱなし。
【混ぜるといえば?】
片岡さん:「現場」。今のこのインタビューもそうやけど、”場所”がいちばんほかと混ざり合うところだと思うので。
小林さん:「想い」と「人」。私はアウトプットのしかたが正直わからないので、片岡さんや、エンタメそのものを使ってアウトプットしていくというか、人に想いを混ぜ込みながら形にしていきたいと思っています。NEW TOWNの中でも率先して、今らしく混ざっていく人になりたいです。
写真:川嶋克